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万葉恋綴【小説】

万葉恋綴(まんようこいうた)下巻2-9

 

允恭帝紀
 

万葉恋綴・下巻

2-9
 

允恭即位5年。

軽大郎女が遠飛鳥宮に舞うより以前、その身が近江坂田にあった頃。

朝廷では、有力豪族の勢力均衡に不具合が生じていた。

 
「先帝の殯宮(もがりのみや)にて、謀反の兆しあり.. 」
 
宮中采女のひとりが占い、皇后大中媛が允恭帝の耳に入れる。
允恭帝紀には、とりわけ采女(うねめ)=巫女(ふじょ)の託宣を、
重要視する事項が多い。
かつて男帝が国を治め、同母姉妹が祭祀を担う支配体制は、
大和朝廷草創期において『魏志』にも記されるほど特異性を持っていた。
神武東征以来の旧大和豪族が渡来氏族と外戚関係を結ぶにあたり、
政治介入を意図した采女献上が、目を覆うまでに顕在化するのである。
 
「殯宮大夫は玉田宿禰(たまだのすくね)であったか.. 」
 
「吾襲(おわりのむらじあそ)を先帝陵墓へ派遣しましょう。」
 
允恭天皇の母系は仁徳天皇の皇后である磐之媛であり、
かつて朝鮮半島で任那の経営に携わったとされる葛城氏だった。
謀反の讒訴を受けた玉田宿禰は葛城氏族であり、
氏祖竹内宿禰の孫にあたる。
允恭帝にとっては、外戚叔父となる人物だった。
反正帝の殯宮大夫であるから、所在地は河内だろう。
記紀によれば、殯の任地を離れていた玉田宿禰が吾襲に諌言され、
殺してしまったとある。
経緯も不明のまま、玉田宿禰は大和の朝廷に出頭し、
戦装束を佩びていたことから叛意と受け取られ、誅殺されてしまう。
真偽はわからぬままである。
玉田宿禰に意図ありとしたのは、允恭帝ではなく、
葛城氏と敵対する諸豪族より献上された、采女の采配に過ぎない。
 
 葛城の 高間の草野 早知りて 標指さましを 今ぞ悔しき
 
これは恋愛歌ではないが、葛城氏の土着する高天山東麓一帯の豊かさを、
それこそ歯軋りするほど羨む様子が伝わってくる。
前述の玉田宿禰誅殺事件では、尾張連吾襲なる使者が関わっているが、
系譜上で葛城氏と尾張氏は姻戚関係を執拗に重ねている。
竹内宿禰を始祖とする葛城氏派生の2系統は悲劇的で、
玉田葛城氏、葦田葛城氏ともに第21代雄略帝の時代、
謀反の咎を受けて、記紀より消息を断つ。
真偽はわからぬままである。
だが一連の流れと系譜の辻褄あわせは、
旧き大和豪族の基盤を乗っ取った尾張氏の、
正当性を主張しているだけのように思えてならない。
 
 
 天の川 雲の水脈(みお)にて早ければ 光とどめず 月ぞ流るる
  
 いつまでも月の光の下で、あなたと逢っていたい。
 なのに早瀬の流れと同じように、瞬く間に月は流れていってしまうの。
 〜作者訳〜
 
允恭即位7年。
遠飛鳥宮に舞を献上した近江坂田の媛は、允恭帝による再三の招請により、
ただひとりの后として迎えられる。
 
「私は、その娘子を迎えるなど、望みませぬ。」
 
そして、頑なに媛の献上を拒んだ皇后忍坂大中媛の凄まじき怒り。
軽大郎女(かるのおおいつらめ)と呼ばれるのは、この頃からである。
皇太子一品である木梨軽皇子(きなしかるのみこ)との、
同母兄妹を構成する一要素であり、血縁者の兄妹である必要はない。
その為の"呼び名"が有する心霊力であった。
皇太子の"同母妹"が、宮中にて后の地位にある。
それは、宮中采女の言葉(ことのは)を用いて政治介入を試みてきた、
皇后よりも重い呪力を持つことになるだろう。
允恭帝は玉田葛城氏という外戚勢力を失った対抗手段として、
軽大郎女の巫女の力に依存しようとしたのだろうか。
「軽大郎女」が軽皇子と対をなす、同母兄妹としての名であるなら、
藤原宮に至りて以降の呼称であろう。
「衣通媛」とは、八稚女(やをとめ)伝説の羽衣になぞらえれば、
養蚕機織技術を伝えた、渡来氏族の"美女"を称する通名でもあろう。
「弟媛」は、忍坂大中媛の対となる呼称である。
 
ならば、朝廷で孤立化する允恭帝を慰撫するためあらわれた、
近江坂田の幼媛とは、一体、何者だったのだろうか。
 
  • 2017.02.18 Saturday
  • 00:00

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